その1 寅子伝説

丸ケ崎新田と綾瀬川を隔てた蓮田市辻谷の墓地に、通称「寅子石」と呼ばれる国認定重要美術品、県指定文化財の板石塔婆が建っている。昔々、当地に寅子という近在稀に見る美人がいて、その容姿は幾多若人の情熱を燃え上がらせました。十五、十六才の嫁入り盛りともなると求婚する者が多く、婿選びで胸を痛め、悩んだあげく自害した。寅子の遺言に「自分の体を料理して、自分を望んだ人たちにご馳走してほしい」と。寅子の両親は、彼女を愛した若者たちを自宅に招いてご馳走しました。ご馳走の中に膾があった。何も知らない若者たちは、その膾に舌鼓を打った。皿の膾がなくなったころ、膾こそ自害して果てた娘「寅子」の肉であったことを告げた。この事を知った若者達は、寅子の霊を慰めるために大きな供養塔「寅子石」を建てた。

丸ヶ崎の「子膾神社」は、この寅子を祀った神社であり、また深作の皿沼はその夜の膳の皿を洗った沼であるといわれています。その夜の膳・椀が流れついた橋を「膳棚橋」と名づけ供養したといいます。春岡小学校の近くに「膳棚橋」があります。

その2 円空と寅子供養

元禄2年(1689)7月25日、円空が武州足立郡丸ヶ崎新田の綾瀬川畦を通りかかった時、小さな薬師堂で人々が集まっておときをしているのを見かけた。村人達は円空に声をかけ、「ちょうどいいところにお出でなさった。今日は寅子の命日ゆえ、こうして集まって供養をしているが、お坊様もおときの仲間にお入りなされ」と、円空を堂内に招き入れた。円空はご馳走をいただき、寅子の哀しい話を聞いた。己の生命を捨てることによって、村に平和をもたらした行いは、それはもう人間ではなく仏者のわざであるように思えた。「ご馳走になったお礼に、仏像を一つ彫っていきましょう」といって、可憐(かれん)な薬師の小像を彫り上げたのであった。

子膾社境内の薬師堂に円空仏がありましたが、現在は多聞院(たもんいん)移されています。

円空さんとは

江戸時代寛永9年(1632年)岐阜県に生まれる。諸国をめぐりながら、手近な木材で仏像を作る。その数は12万体に及んだと言われる。埼玉には円空の作品が数多く残されており、岐阜や愛知についで確認数が多い。埼玉の円空は、県東部に集中しており、日光街道もしくは日光との関連が注目されてきた。日光御成街道に近い村々(大宮→岩槻→春日部→加須)に散在している。日光への参拝途中?帰路途中?、青森から松前に渡り、洞爺湖の観音堂に観音坐像を納めるなど、北海道に40体を残している。

円空は、遊行僧とも、行人とも、修験者とも、山伏ともいわれ、お上人様とも、高僧とも、乞食坊主?とも呼ばれていた。山に登り、山に求め、山に祈り、山に生きた人であり、今まで発見されている円空仏は山上に多かった。